☆ 官 邸  日 記 ☆ ― Prime Minister Of Japan’s Diary ? ―
2004-08-28
 
【平成16年8月27日(金)】
【午前】東京・高輪の高輪プリンスホテルで静養。来客なし。

【午後】6時1分、東京・永田町のキャピトル東急ホテル。ホテル内の「村儀理容室」で散髪。8時40分、高輪プリンスホテル宿泊。


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23日(月)放映、テレビ朝日系「TVタックル」でビートたけしが、「今、歴史物に凝って天下分け目の関ヶ原合戦の本を読んでいるが、公明党って『小早川秀秋』じゃない !!」と意味深な発言。



【小早川秀秋】

豊臣秀吉 正妻、北の政所の兄・木下家定の子。
3歳で秀吉の養子となり後に小早川隆景と養子縁組。

慶長5年(1600)9月15日 「関ヶ原合戦」当日、最初は西軍に属し松尾山布陣。
西軍からは秀頼元服までの関白職、東軍からは上方での二国領有のお誘い。どちらも好条件ながら組せず山の上から高みの見物。

業を煮やした東軍・家康が松尾山に決断を促す威嚇射撃敢行。脅しに驚いた秀秋軍は東軍に寝返り、西軍・大谷吉継軍襲撃。西軍は総崩れとなり東軍・家康の勝利に終わった。
合戦後、東軍勝利の最大功労者として備前・美作55万石、岡山城主となったが21歳にて病死。その死にはいろいろな風説あり。

その公明党憲法調査会が「平和主義の原点を貫き、9条堅持」を打ち出した。従来からの主張である時代に即した『加憲』からも9条をはずす。
また、国立追悼施設建設に向けた調査費を来年度概算要求に盛り込むよう細田官房長官に申し入れたが、政府は翌日、来年度調査費計上はしないと表明。

この2件とも公明党の責任者は、次期入閣候補者であるプリンス 太田昭宏幹事長代行。憲法や教育基本法などでの党の独自性を大切にした基本政策を重要視している。

公明党の最大支援組織 創価学会には自民党との連立後、「自民党の補完勢力となり独自性喪失、埋没ぎみ !!」と手厳しい。各種選挙での自民党支援、にもかかわらず憲法で自民に押し切られ、靖国代替の国立追悼施設建設NO !!では憤懣やるかたない。

コイズミの神通力が弱まり何時までもつか? 微妙。岡田 民主党も風に乗れば勢いがつくが党内事情複雑。
となれば、両党から距離を置き党の独自性を強くアピールし第三極転進も選択肢。

しかし、政権与党の旨味は投げ出したくない。そこで神崎 現執行部続投で様子見し岡田 民主党が政権とれそうならパートナーチェンジとなる。

ドイツにも自由民主党(FDP・日本の自民党は英語略、LDP)がある。西ドイツ時代からの自由主義を掲げる中道政党である。西ドイツは、1949年5月のドイツ連邦共和国発足以来、同年8月 総選挙でアデナウアー党首率いる中道左派の社会民主主義政党 キリスト教民主同盟(CDU)が第1党となり初代首相就任、以来20年にわたり政権(3人の党首)を担当してきた。

ところが、1969年野党第1党 ブラント党首率いる中道右派の保守主義政党 社会民主党(SPD)が、西ドイツ 自由民主党(FDP)と組んで連立内閣を組閣。ブラント(1974年 首相秘書だったギョームが東ドイツスパイと判明した「ギョーム事件」で引責辞任)―シュミットと2代の党首がFDPとの連立で政権を担った。

1982年 総選挙後、FDP(西ドイツ 自由民主党)が離反。今度はキリスト教民主同盟(CDU)と組んでコールCDU党首が首班の連立内閣へ・・・・・・・・。(現在のシュレーダー政権〈1998年~〉はCDUと緑の党/連合’90との連立)

いつも東西冷戦の狭間、西ドイツ政治のキャスティングボードを握っていたのがFDP(西ドイツ 自由民主党)だったが、「節操がない・大臣ほしさ・与党ボケ」など世の批判を『常に国民の利益優先の現実路線』とかわし政権中枢に君臨し続けた。

誰だい !! 、どこかの国にもよく似た政党があると言うのは・・・・・・・?

そこのお前さん、『FDP』は「西ドイツ 自由民主党」のことだよ。
ダメだよ、『ファンの○作にペーこらする党』なんて訳しちゃ・・・?!

  ※ 本日の配信遅配を深謝し奉る。

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