☆ 官 邸  日 記 ☆ ― Prime Minister Of Japan’s Diary ? ―
2007-06-29
 
【平成19年6月28日(木)】
【午前】9時55分、公邸発。56分、官邸着。10時18分、尾身幸次財務相。

【午後】12時13分、報道各社インタビュー。1時4分、塩崎恭久官房長官。41分、官邸発。43分、自民党本部着。44分、総裁室。45分、中川昭一自民党政調会長。3時34分、谷津義男自民党選挙対策総局長。52分、自民党本部発。55分、官邸着。57分、冬柴鉄三国土交通相。5時1分、官邸発。21分、東京・神宮前の故宮沢喜一元総理宅着。弔問。31分、故宮沢喜一元総理宅発。58分、官邸着。6時2分、的場順三官房副長官。41分、報道各社インタビュー。50分、官邸発。51分、公邸着。


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「『 私が初当選した時の総理。 』当時は自民党が与党から野党に転落する混乱があった。大きな転換期が始まる中で、日本が平和構築に向けて国際貢献するスタートを切れたのも宮沢氏のリーダーシップがあったからだ。経済政策にも信念を持っていた。」と弔問後、安倍総理語る。

吉田・池田政権側近として、戦後政治を常に政権中枢から見てきた「生き証人」、外交・経済・安保などに精通したハト派の保守本流政治家宮沢喜一元総理が、老衰のため亡くなった。享年87歳、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

宮沢氏の政治業績・経歴は、既に諸兄姉、ご承知の通り。

フルブライト留学生出身、流暢な英語を駆使し東京帝大-大蔵省、同郷の池田勇人蔵相(当時)の目にとまり、秘書官抜擢。昭和26年、サンフランシスコ講和条約締結時の随員同行、33歳で参院議員。後に衆院に鞍替え、43歳で経済企画庁長官として初入閣。以来、外相、蔵相、通産相、官房長官等の主要閣僚を歴任したエリート官僚出身政治家として宏池会(旧池田・前尾・大平派)に所属、総理にまで登りつめた。

ただ、政争・政局に弱いお公家集団「宏池会」の代表的存在、対極のコテコテ党人政治家田中角栄元総理、そして田中氏の盟友で大蔵省の先輩、所属派閥領袖 大平正芳元総理とソリが合わず冷や飯。

永田町が政局混乱で大騒ぎの最中でもひとり、英字新聞や外国論文、原書に目を通し、「我関せず」で評論家的な冷静さが災い、総理の座に就いたは政界入り39年後、72歳になってからだった。

総理になってからも「大幹事長」とまでの敬称使用した小沢一郎氏(当時・現民主党代表)に代表される自民党竹下派全盛時代で、傀儡政権、操り人形と揶揄、翻弄され続け中々、お得意の経済などでも指導力が発揮できず、遂には竹下派分裂による内閣不信任、解散-総選挙で敗退し、「55年体制」最後の自民党単独政権となった。

自民党が政権復帰の小渕内閣で戦後初となる総理経験者の蔵相就任で『平成の高橋是清』といわれ、小渕総理急逝後の森内閣で初の財務大臣にも就任した宮沢喜一氏だったが、小泉前総理時代の自民党「衆院比例73歳定年制」により「(小泉)総理に恥はかかせれない。」として素直に政界引退するも親米・護憲派の重鎮としてマスコミ等で活躍していたが、数年前から体調を崩し療養中だった。

『 私が初当選した時の総理。 』と沈痛な面持ちで語った安倍総理、その後自民党下野-野党転落を考えると、何か今後を予想させるようで因縁めいたものを感じるのだが・・・・・。

あらためて、心よりお悔やみ申し上げるとともに、謹んで故宮沢喜一元総理のご冥福をお祈り申し上げます。

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